Nine Days’ Wonder Nine Days’ Wonder – 家族というのはひとつの小さな社会で、否応なくそれは外の社会の構造と繋がっている。 社会からのさまざま抑圧や管理、無数の暴力のフラグメントはその中に滔々と流れ込んで、延々と淀み、そして循環していく。 ーーそれなのに、世界から隔絶され、孤立した密室。 その中でどうにか生き延びるために、皆、あがいて、もがいてゆく。 どうしようもなく不自由で歪な世界の中で、微かな自由を手にするために。 三名の役者で送る、ささやかな朗読劇。 – 1【スライド+ノイズ音】 —— C その連絡が来たとき、私はうとうとと眠りかけていたところだった。 だから、画面に表示されるそのメッセージが、現実のことなのか、夢の中のことなのか、判別がついていなかった。 もう何年も、会っていない姉からのものだった。 姉と言っても、血の繋りは半分だけの、偶然の成り行きによる、戸籍上の。 それでもかなり長くの間、同じ家の中で過ごしてきたわけだから、やはり、姉と表するしかない相手。 A ーーお母さんが倒れたから、病院にいる。 B 病院、というのは、あそこでは、ひとつしかない。 近くの小さな病院なら、お医者さん、という。ーー野田先生のところ、平川先生のところ、キム先生のところ。 そうでない病院、というのは、川の向こうにある、総合病院。市内なら、救急車の行き先も、そこにしかない。 だから、そう、と私はそれだけ返信する。 昔と違うから、病棟くらいは、聞いておかないといけないのかもしれない、とおもう。 思うけれど、私は、そこに、行くだろうか、と考える。 身体が重たくなっていく。 2【スライド+ノイズ音】 —— C ーーうちの台風の目はいつも姉だ。 おそらく、彼女は母の自慢の娘であり続けていた。 ある一時期まで。 多分それまで、彼女と母はあまりに不可分で、おそらく、ある種の共犯関係みたいなものさえあって。 美しくて、優秀な娘さん。 彼女たちにほんとうは血の繋がりがなかったことを知っている人間なんて、ほとんどいない。 そんなこと、わざわざ言わなければわからないこと。 だけど、彼女たち自身は、それをよく知っていて、だから、その「親子」を必要以上に作り上げていた。 そうしてそれは、静かに破綻をした。 ーーある時、姉は外に出るのを止めて、そうして、部屋の中に引きこもってしまった。 A 食卓のテーブルの端が、うっすらと赤い。 それはたぶん。籠に転がっているりんごの反射。 曖昧な、世界の境目。ぐにゃり、と視界が歪んでいくイメージ。 それをなんとなく眺めていた午後に、不意に私は、全てをやめてしまおう、と思い立った。 引き受けてきた役割を果たすことも、求められているものに返すことも。 ーー線を引いて、私は部屋の中に立てこもる。 ここからは、私の陣地で、誰も立ち入らせはしない。 B ーーお姉ちゃんが、おかしくなった。 母からそんな連絡が入った時、私はもう彼女から見ればもっと「おかしく」なっていた頃で、携帯に表示されるその一文を読みながら、失笑してしまった。 どうやら姉は、その二階の自室に引きこもって、もう何ヶ月も、籠城を決め込んでいるらしい。 私は、その、いきなりの行動力に、ちょっとあっけにとられて、それから、なんとなく、胸のすく思いを感じる。 そんな事ができたんだ。 私が勝手に抱えていた姉の印象では、そんな思いきったことができる人ではなかった。 人よりも器用で、美しくて、大抵のことを何でもそつなくこなしてしまう。 降り積もっていく母からの期待も、淡々とこなして、片付けていく。 記憶にある限り、反抗らしい反抗を、したところを見たことはなかった。 なるほどなあ、と私は納得をする。 姉らしい、と思う。それほどに、姉のことを理解しているわけではないけれども、自分の知る限りでは、最も姉らしい、反旗。 3【スライド+ノイズ音】 —— C 姉が引き受けていた「普通」が破綻した時、その「普通」の役回りが突然、自分の上に降り掛かってきた。 それまでに降り注がれていなかった母の視線が、急に「私」の上にのしかかってくる。 そのころもう、「兄」は家を出ていて、そうして、もう、ここにはいない存在だった。 お兄ちゃんがいてくれたら、と母は何度も口に出して、彼女からの言外の要請を降り注がれながら、なぜ、母は「私」でなく「兄」のことばかりを求めるのか、心底不可解に思った。 それでも、もはやこの家にいるのは彼女と私しかいない。 「姉」はその2階にある自分の部屋に籠城してしまって、「いないもの」となってしまった。 母は、その扉を開けない。まるでなにかに怯えるかのように。 別に扉を開ければ、たぶんお姉ちゃんは出てくるんじゃない? そうして、マトモに話を聞いてみれば、なにか、解決することがあるんじゃないか、なんて、そんなことを思ったりもした。 だって一度だって、お姉ちゃんの話をちゃんと聞いたことなんてある? でも、たぶん、違うんだろう、ともまた思う。 もはやそういうことでは、ないんだろう。 そもそも、彼女は姉の話を沢山「聴いてきた」つもりなんだろうし、そうして今はもう、「姉」に何かを背負わせることを諦めてしまったから、だからもう、彼女は「姉」を見ることすらできないんだろう、と思う。 面倒な人たち、そう思う。そう思うけれど、身代わりのように託された彼女の「普通」をわたしもまた、振りほどくことができない。 お姉ちゃんがああだから。 だからそれは仕方がないこと。 どのみち、母に何を言ったところで、通じない。彼女は、彼女の中のなにかの「必然」を追い求めて、それを私達に当てはめていく。 目の前に生きている、自分と違う生き物として、私達を見る力を持っていない。 少し冷めた目で、彼女と姉と、兄のやりとりを延々と見てきたおかげで、私はきっと彼らよりももう少し、諦めを覚えていて、だから、自分の根幹が揺らぐほどの不安も、抑圧も、感じることはない。ーーただそれは、「比較すれば」という話。 小さな家の中で、積み重なってくる圧力に、私はだんだんと疲れ果ててしまう。 彼女の求めるちいさなちいさな「当たり前」は日々堆積して膨大になっていく。応えれば応えるほどに、肥大していく彼女の欲望。 だけど、そのひとつひとつは、あまりにもささやかで、なんてことのない、あまりにも「普通」のこと。 彼女の圧力は、いつも巧妙で、そうしていつだって無自覚で、とうてい、外からはわからない。 他の誰かに言ったところで、その息苦しさを伝えることは難しい、と思う。 A どこかで見たイメージが、繰り返し頭をよぎっていく。 ささいなボードゲーム。 取った陣地に、旗を立てていく。 ささやかで、ほんの小さな。 お子様ランチのオムライスの上に立っているような、なんてことのない、小さな旗。 それを易々と立てていく誰かの手。 ーー自分の拠点に、旗を立てていく、その行為が、自分自身から、あまりにも遠く思えて、めまいがする。 C そのころ、兄はもう「普通」の枠から逸脱を始めていた。 表向きはいたって「普通」に県内のそこそこの「男子校」に通って、そこそこの自由を謳歌して、そこそこの成績で卒業して、そうして、都会の「それなり」の大学に通って、そうして家には帰ってこなくなって。 しばらく経った頃、「兄」は、いつの間にか「姉」に変貌を遂げていた。 その変化は緩やかで、しばらくは、誰も気づかないくらいだった。なんとなく、最近髪が長いらしい。とか、なんとなく、可愛いものを身につけるようになった、とか。 でも考えたら、彼は昔から可愛らしいものを好んでいたし、家から離れることで、そういうものが自由になったんだろう、そう感じていた。別に化粧をする男の人もたくさんいるし、都会で「そういう感じ」の、「そういう方向」に行ってるのか、くらいの認識で。 それがいつの間にか、そうではない、領域に変貌していて、私はしばらくのあいだ、ただ、呆然としていた。 B いち抜けた、という感覚。 家から遠く離れて、「お兄ちゃん」の役割を引き剥がして、名前すらも引き剥がして、私は、いままでとは違う、もうひとつの「現実」を手に入れていく。 そこでどうにか、足がかりを探す。 4【スライド+ノイズ音】 —— C 母からのしかかってくる「普通」が、取るに足らない幻想であることが解っていてもなお、それは振りほどきがたく、私を縛り付けている。 当たり前に学校に行って、当たり前に卒業して、就職をして、当たり前に結婚をして、当たり前に子どもを産む。 姉がそのレールから外れてしまったから、兄が家を離れてしまったから、それを担うのはあなたしかいない、という、彼女の中での「当たり前」の要請。 彼女の求める「そこそこ」の高校に行って「そこそこ」に卒業して、そうして、そのあたりで、私の「そこそこ」は力尽きてしまった。 その先にあるものは普通の結婚で、普通の家庭を築くことで。 そこまで来たときに、愕然としてしまった。 私の中には、かけらほども、その欲望がない。 A 結局、きっかけが一体なんだったのか、もうよく覚えてはいない、と思う。 何か、決定的な出来事が、あったような気もしていた。その時にさっと胸をよぎっていった、強烈な感情の手触りだけを、僅かに思い起こすことができる。 だけど、何もかも記憶が曖昧で、はっきりと思い出すことができない。 B ーーお兄ちゃんは、自由でいいよね、とかつて妹に言われた言葉が蘇る。 自由だったんだろうか、と私はゆっくりと考える。 まあ、そうかもしれない。「普通の」人達に比べれば。 でもそれは、「自由に」生きていくしかなかったという不自由さの裏返しなんじゃないか、とも思う。 そんな不自由さの間をすり抜けるようにして、生きながらえるために、アイコンとしての「自由」を身体に貼り付けていく。 外側から貼り付けられる「分類」や「解釈」に抗うために、先んじて「名乗って」いく。 5【スライド+ノイズ音】 ——– A 病院に運ばれた彼女は、始終朦朧としていて、それでも、時々私を呼ぶ。 お姉ちゃん、と繰り返し私を呼んで、そうして、私の姿を認めると、安心したように、また、眠りに落ちてしまう。 遠い昔に父親が家に寄りつかなくなって、そうして弟が家を出て、それから妹が出て行って、あの家に2人きりになってから、いつのまにかそれなりの時間が経っている。 でも、彼女は彼女で、私は私で、別々に生活をして、だから、そう呼ばれたのなんて、いつ以来なのかもわからなかった。 B 毎日のようにかかってきていた母親からの電話が来ないことに、落ち着かない気持ちになる。 彼女が倒れた、という連絡を、姉からもらって、もう3日も経っていて、それなのに、夕方の時間になると、それをすっかり忘れている。 お兄ちゃん、と私を呼ぶ彼女の声が響いてくる。 いつまで経っても私はあの家のなかで「お兄ちゃん」で、今や彼女にとっておそらく、いちばんのよりどころで。 それを引き受けてやりたい、という気持ちと、煩わしいという気持ちと。 しばらくその役割を背負っていた妹は、いつの間にか、家を出てしまったらしい。 ーー電話にも出ない、と嘆く声。 うんうん、と私はただ頷いて、彼女の声を聞き流していく。 ーーお姉ちゃんは相変わらずあんなだし。昔はあんなにいい子だったのに。 繰り返し繰り返し訴えられた言葉が、頭を駆け巡る。 「あんな」だ、と彼女は言うけれど、ここのところ姉は別に、母に見えないところでそれなりに自分の生活を作っているようだった。 元来器用な人だから、そこまで、心配することでもなければ、そう困ったこともないのかも知れない、とそう思う。 彼女が欲しいものは、いったい、なんだったんだろう、と考える。 もしかしたら、彼女は、この家が「うまくいっている」というその形を、なかば意地のようなもので、証明したかったのかもしれない。 父親と出会って、そうして、まだ小さな子どもを連れた彼と、成り行きで見知らぬ土地で生活をはじめた彼女が、ここで、処世術として頼ったのが、そういうものだったのかも。 子どもたちが「ちゃんと」していること。 それを担保できている母親であること。 ーーそんなことを考える。 でもそれは、私が、母について、外から勝手に評していることで、そうして、彼女を分析して、私の中で、理解可能なものとして語り直しているだけのもので。 本当はぜんぜん違うのかもしれない、とも考える。 だから、これはあくまで、彼女の話ではなくーー勝手な私の物語で。 私はそうやって、彼女の声を思い起こしながら、そんなふうに何度もはなしを作り直して、私にとっての物語を組み立てて、そうして、私自身の「理解」を手繰り寄せていく。 C もう長い間、その部屋に閉じこもっていたはずの姉が、当たり前のように倒れた母に付き添って、その手続から何からを、滞りなく果たしているらしいことに、戸惑ってしまう。 知らない間に、姉はあの狭い部屋の中で、大人になっていたらしい。 別に困ってはないから、来ないなら来ないでもいい、そう言われることに、更に戸惑ってしまう。 自分から距離を取ったはずなのに、蚊帳の外にいるような、不安が襲ってくる。 いつのまにか、飛地に私だけが取り残されているような。 6【スライド+ノイズ音’】 —— B 不意にいくつかの記憶が蘇ってくる。 断片のような記憶。 C 不安定な足元で、私は多分、誰かの手を握って、神社の敷石の上を歩いていた。 B 病院のそばには、大きな神社がある。 この辺りの総鎮守。 A 妹の手をぎゅっと握って、私は歩いている。 七五三のお祝い。 B 赤い縮緬のお着物。 C たしか、親戚から譲り受けた。 いいものだから汚しちゃだめ。 B 赤い晴れ着…縮緬の。 C 朝からずっと、ずっと、 気をつけて、汚さないで、いいものだから、 そう繰り返された言葉が頭の中を回っている。 B 赤くて、可愛くて、少しいい匂いがする。 C 不意に脱ぎ捨ててしまいたい、と思った。 私にまとわりついている、嗅ぎ慣れない匂いのする晴れ着。 B それを着ていたのは、自分ではない。 だけど記憶の中ですり替わっていく。 A いい天気だね、と誰かが言って、空を見上げたら、本当に、雲ひとつない晴天で、 それを見て、なんだか、まるで、このまま空が落ちてきそうだ、と思った。 視界が一気に歪んで、急激に襲ってくる不安に、泣きそうになる。 近くで、ぐずっている同じくらいの子どもに、小さな苛立ちを覚えた。 私は唇を噛んで、全てに、気が付かなかったふりをする。 C ーーいいものだから汚しちゃだめ。気をつけて。 それはしばらくたってから、すとんと…腑に落ちた。 いいものだから汚しちゃだめ。いいものじゃないなら、汚れてもいい。 それが延々と、居座っている。 いつからか、自分の身体が自分と乖離しているような感覚を抱えている。 ときどき、身体を切り離したいという切望に苛まれる。 だけど、私はどこまでも私でしかなくて、そこから、逃れることができない。 7【スライド+ノイズ音】 —— C 家出をするように都会に出てきてそして「いかがわしい」仕事ばかりを転々として、 ここのところしばらく働いている店の、薄暗い個室。 マンションの一室でひっそりと営業している「そういう」サービスのお店。 店の乾燥機で乾かされたばかりの、洗濯したてのタオルの匂い。 それを敷いた細いベッドの上に、私はゴロゴロと寝転がる。 多分法律には違反している。 だから、運が悪ければ一瞬で失ってしまう。どころか私も、罪に問われてしまうのかもしれない。 でも、この不安定な居場所は、私の中で、自分がコントロールできる唯一の場所、そんな気がする。 客が入ってきて、迎え入れて、シャワーに連れて行って、そうして、もう一度迎え入れて、ベッドに寝かせて、それからマッサージをする。 それから、いくばくかのローションを手にとって、ただの作業として、その身体の真ん中に手を伸ばしていく。 そうして、吐き出されていく、誰かの体液。 毎回、こういうことに、特になんの意味もないのだ、ということを確認する。 これは単にメカニズムでしかなくて、ほんとうに、そこには、大した意味も、価値もない。 そこに何かを見出すことは簡単で、世間はたくさんの意味付けをしようとするけれど、こうして、体の上にかけていた一枚のタオルを引き剥がしてみたら、そこには、別に、なにもない。 そんなものだったのか、という、仕組みをじっと「覗いて」いる。 ーー愛情と性欲と生殖は一致しない。 そんな当たり前のことに、深く安堵する。 A ときおり、ひたすらに、消えてしまいたい、と思う発作がやってくる。 ベッドにうずくまって、そうしてその衝動をどうにかやり過ごしていく。 希死念慮、というやつなのかもしれないし、ちがうのかもしれない、と思う。 いつでも消えてしまいたい、と願っているのに、それでもそれを実行に移さないのは、何なんだろう、と自問する。 自分をつなぎとめているものが、いったいなんなのか、自分でもわからなくて、混乱していく。 B おそらく姉や、妹が引き受けていた母の要請から、私はおそらく、何かを迂回するようにして、すり抜けてきてしまった。 彼女が私に求めていた「息子」の役割を、私は抜け道のようにくぐり抜けて、彼女の「普通」の範囲を侵さないままに、するり、とあの家を抜け出した。 彼女が満足の行く「大学」へ進学をする、という「合法的な」抜け道。 その分だけ、私は、姉と妹の二人に、重荷を背負わせてしまった、という引け目を感じてしまう。 だけど、と思う。 彼女はとうてい、息子が娘になってしまった、などという荒唐無稽な現実を、受け入れることはできないだろうし、 それを目の前に突きつけたら、それこそ余計に、二人に負担をかけることになるだろう、とも思った。 そうして、それ以上に、そんなふうに扱われるだろうことが解ってまで、彼女と面と向かって対峙するエネルギーは、とても私の中にはない、そう思った。 それでなくても、刷り込まれていく外界からの抑圧は積み重なっていく。 それにどうにか、抗いたいと思う。 強引に「私」を「理解」しようとする社会の欲望にあらがっていく。 あなたの、その、ちっぽけな不安を解消するために、私を、勝手に理解しないでほしい、と切望する。 8【スライド+ノイズ音】 —— C 「母が倒れたから」店の待機場所でそんなことをこぼした。 特に親しく話をするでもない、そのときに居合わせたら、他愛もない雑談をするだけの同僚と、スタッフ。 あんまりよくないみたいで、と続けたら、帰るの?とスタッフに訊ねられて、私はうーん、と歯切れの悪い返答をする。 帰ったほうが、いいんだろう、とは思う。思うけれど、上手く思い切りがつかない。 あんまり、帰りたくない感じ? と同僚が何でもなさそうに口を挟む。 そんな感じかな、と私は答えて、まあ、じゃあ、決まったら電話して、と言うスタッフに、小さくうなずいた。 わたしもさあ、帰んなかったよ、父親だけど。お葬式?もなんも、出てないし。 あっけらかん、とそう言われるのに、私はびっくりして、そっか、とうなずいた。 そう、会いたくなかったし。顔も、見たくなかったし。大っきらいだったから。 そう言われるのに、ぐらり、と感覚が揺らいでいく。 B 大嫌い、と言えるほどに明確に憎むべき何かが見いだせていれば、もうすこし簡単なことだったのかも、と思わなくもない。 それはそれで、多分、大変なんだろう、と思うけれど、それでも、輪郭を持たない何かと戦うことは、至難の業で、いつの間にか、たくさんのものが削り取られていく。 A ぽつん、とひとりきりの家に帰って、私はその、玄関の真ん中に立ち尽くしてしまった。 大量の記憶が、蘇っては過ぎ去っていく。いいものも、わるいものも。 そのうちに、何が本当にあったことで、何が自分の想像の中の出来事だったのか、よくわからなくなってくる。 どれもこれも、大したことではない、とも思う。結局、取るに足らないことばかり。 数え上げてみれば、どれも、なんてことはないありふれた出来事ばかりで、なにか大げさな悲劇が、起きていたわけではない、と思う。 でも、それでも、と、はたとおもう。 どれも重大事だった。 私にとっても、そしておそらく、彼女にとっても。 B 結局、思っているよりもずっと、圧倒的に無力だったのだ、とおもう。 私も、姉も、妹も、そうして、母自身も。 もちろん、私たちよりももう少し、彼女には力があったのかもしれない、とは思う。 思うけれど、それは、彼女一人に支えきれるようなものでは到底なくて。 外の世界から、移譲されていく抑圧。 それは少しずつ 少しずつ堆積していく。 あちこちにできた歪みは、もしかすると、彼女なりの抵抗だったのかもしれない。 9【スライド+ノイズ音】 —— A 眠り続ける彼女の横顔を見ながら、もうこのまま、目覚めなければいいのに、と思う。 このままなら、平和でいられる。心穏やかなままに、きっと良好な親子、でいられる。 そう思う自分に、苦笑をする。 この期に及んで、良好な親子でいたい、というその刷り込みの強固さについて。 でも、やっぱり、目覚めてほしくはない、と思う。 目の前に横たわる彼女は、どこからどう見ても圧倒的に無力で、そうしてすごく安定していて、そんな彼女を見つめていることで、安心をする。 突然、理不尽な要求をすることもなければ、不機嫌を撒き散らして、周りを困らせることもない。 子どものころからずっと、穏やかであってほしい、とそう願っていた彼女の姿がそこにあった。 B 危ないかもしれない、という続報に、私はとりあえず、姉の様子を見に行こう、と思い立つ。 病院には、行かなくても、家に行けばいい。もはや、何を言う人間もいないわけで。 そうして、意識が、戻らないようならば、病室まで行ったところでかまわないだろう、とも思う。 言いたいことの、2つ3つは、やっぱりあるかもしれない。 それに、顔くらい、見ておいたほうが、あとから引きずらずに済むかもしれないし。 ーー結局、よくわからない。 彼女を、憎むべきなのか憐れむべきなのか、それとも、別になんともしなくていいものなのか。 あれもこれもわからない、掴みどころのないものばかりで、その間をただ、私は右往左往と彷徨い続けている。 C 嫌なら帰んなくていいんじゃない? と、同僚は私に笑って、別に、後悔とかしなかったよ、私は、と付け加えてくれる。 わかんないけど、と更に付け加えてくれる彼女の気遣いにはたと胸を打たれてしまう。 嫌なら帰らなくていい、その言葉を繰り返しているうちに、涙が込み上げてきてしまう。 ーー嫌なら、帰らなくていい。 A ゆっくりと2階に上がって、やっぱり私は、自分の部屋の扉を閉める。 そうして、眠り続ける母親の横顔を、しずかに葬り去っていく。 このちいさな家の中にある、私たちの個人的な出来事は、だけど、外の世界の誰かの、身勝手な理屈からできている。 彼らにはきっと見えてもいない、あるものともしていない、「私」の世界に、それは否応なく踏み込んで、掻き乱していく。 すべてはありふれた、取るに足らない出来事。 扉の手前に線を引く。そうして、かりそめの砦を作っていく。 ささやかでつたない、頼りない、危なっかしい、ままごとの城塞 そして私は、そこに、小さな旗を立てる。
Nine Days’ Wonder
Nine Days’ Wonder
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家族というのはひとつの小さな社会で、否応なくそれは外の社会の構造と繋がっている。
社会からのさまざま抑圧や管理、無数の暴力のフラグメントはその中に滔々と流れ込んで、延々と淀み、そして循環していく。
ーーそれなのに、世界から隔絶され、孤立した密室。
その中でどうにか生き延びるために、皆、あがいて、もがいてゆく。
どうしようもなく不自由で歪な世界の中で、微かな自由を手にするために。
三名の役者で送る、ささやかな朗読劇。
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1【スライド+ノイズ音】
——
C
その連絡が来たとき、私はうとうとと眠りかけていたところだった。
だから、画面に表示されるそのメッセージが、現実のことなのか、夢の中のことなのか、判別がついていなかった。
もう何年も、会っていない姉からのものだった。
姉と言っても、血の繋りは半分だけの、偶然の成り行きによる、戸籍上の。
それでもかなり長くの間、同じ家の中で過ごしてきたわけだから、やはり、姉と表するしかない相手。
A
ーーお母さんが倒れたから、病院にいる。
B
病院、というのは、あそこでは、ひとつしかない。
近くの小さな病院なら、お医者さん、という。ーー野田先生のところ、平川先生のところ、キム先生のところ。
そうでない病院、というのは、川の向こうにある、総合病院。市内なら、救急車の行き先も、そこにしかない。
だから、そう、と私はそれだけ返信する。
昔と違うから、病棟くらいは、聞いておかないといけないのかもしれない、とおもう。
思うけれど、私は、そこに、行くだろうか、と考える。
身体が重たくなっていく。
2【スライド+ノイズ音】
——
C
ーーうちの台風の目はいつも姉だ。
おそらく、彼女は母の自慢の娘であり続けていた。
ある一時期まで。
多分それまで、彼女と母はあまりに不可分で、おそらく、ある種の共犯関係みたいなものさえあって。
美しくて、優秀な娘さん。
彼女たちにほんとうは血の繋がりがなかったことを知っている人間なんて、ほとんどいない。
そんなこと、わざわざ言わなければわからないこと。
だけど、彼女たち自身は、それをよく知っていて、だから、その「親子」を必要以上に作り上げていた。
そうしてそれは、静かに破綻をした。
ーーある時、姉は外に出るのを止めて、そうして、部屋の中に引きこもってしまった。
A
食卓のテーブルの端が、うっすらと赤い。
それはたぶん。籠に転がっているりんごの反射。
曖昧な、世界の境目。ぐにゃり、と視界が歪んでいくイメージ。
それをなんとなく眺めていた午後に、不意に私は、全てをやめてしまおう、と思い立った。
引き受けてきた役割を果たすことも、求められているものに返すことも。
ーー線を引いて、私は部屋の中に立てこもる。
ここからは、私の陣地で、誰も立ち入らせはしない。
B
ーーお姉ちゃんが、おかしくなった。
母からそんな連絡が入った時、私はもう彼女から見ればもっと「おかしく」なっていた頃で、携帯に表示されるその一文を読みながら、失笑してしまった。
どうやら姉は、その二階の自室に引きこもって、もう何ヶ月も、籠城を決め込んでいるらしい。
私は、その、いきなりの行動力に、ちょっとあっけにとられて、それから、なんとなく、胸のすく思いを感じる。
そんな事ができたんだ。
私が勝手に抱えていた姉の印象では、そんな思いきったことができる人ではなかった。
人よりも器用で、美しくて、大抵のことを何でもそつなくこなしてしまう。
降り積もっていく母からの期待も、淡々とこなして、片付けていく。
記憶にある限り、反抗らしい反抗を、したところを見たことはなかった。
なるほどなあ、と私は納得をする。
姉らしい、と思う。それほどに、姉のことを理解しているわけではないけれども、自分の知る限りでは、最も姉らしい、反旗。
3【スライド+ノイズ音】
——
C
姉が引き受けていた「普通」が破綻した時、その「普通」の役回りが突然、自分の上に降り掛かってきた。
それまでに降り注がれていなかった母の視線が、急に「私」の上にのしかかってくる。
そのころもう、「兄」は家を出ていて、そうして、もう、ここにはいない存在だった。
お兄ちゃんがいてくれたら、と母は何度も口に出して、彼女からの言外の要請を降り注がれながら、なぜ、母は「私」でなく「兄」のことばかりを求めるのか、心底不可解に思った。
それでも、もはやこの家にいるのは彼女と私しかいない。
「姉」はその2階にある自分の部屋に籠城してしまって、「いないもの」となってしまった。
母は、その扉を開けない。まるでなにかに怯えるかのように。
別に扉を開ければ、たぶんお姉ちゃんは出てくるんじゃない?
そうして、マトモに話を聞いてみれば、なにか、解決することがあるんじゃないか、なんて、そんなことを思ったりもした。
だって一度だって、お姉ちゃんの話をちゃんと聞いたことなんてある?
でも、たぶん、違うんだろう、ともまた思う。
もはやそういうことでは、ないんだろう。
そもそも、彼女は姉の話を沢山「聴いてきた」つもりなんだろうし、そうして今はもう、「姉」に何かを背負わせることを諦めてしまったから、だからもう、彼女は「姉」を見ることすらできないんだろう、と思う。
面倒な人たち、そう思う。そう思うけれど、身代わりのように託された彼女の「普通」をわたしもまた、振りほどくことができない。
お姉ちゃんがああだから。
だからそれは仕方がないこと。
どのみち、母に何を言ったところで、通じない。彼女は、彼女の中のなにかの「必然」を追い求めて、それを私達に当てはめていく。
目の前に生きている、自分と違う生き物として、私達を見る力を持っていない。
少し冷めた目で、彼女と姉と、兄のやりとりを延々と見てきたおかげで、私はきっと彼らよりももう少し、諦めを覚えていて、だから、自分の根幹が揺らぐほどの不安も、抑圧も、感じることはない。ーーただそれは、「比較すれば」という話。
小さな家の中で、積み重なってくる圧力に、私はだんだんと疲れ果ててしまう。
彼女の求めるちいさなちいさな「当たり前」は日々堆積して膨大になっていく。応えれば応えるほどに、肥大していく彼女の欲望。
だけど、そのひとつひとつは、あまりにもささやかで、なんてことのない、あまりにも「普通」のこと。
彼女の圧力は、いつも巧妙で、そうしていつだって無自覚で、とうてい、外からはわからない。
他の誰かに言ったところで、その息苦しさを伝えることは難しい、と思う。
A
どこかで見たイメージが、繰り返し頭をよぎっていく。
ささいなボードゲーム。
取った陣地に、旗を立てていく。
ささやかで、ほんの小さな。
お子様ランチのオムライスの上に立っているような、なんてことのない、小さな旗。
それを易々と立てていく誰かの手。
ーー自分の拠点に、旗を立てていく、その行為が、自分自身から、あまりにも遠く思えて、めまいがする。
C
そのころ、兄はもう「普通」の枠から逸脱を始めていた。
表向きはいたって「普通」に県内のそこそこの「男子校」に通って、そこそこの自由を謳歌して、そこそこの成績で卒業して、そうして、都会の「それなり」の大学に通って、そうして家には帰ってこなくなって。
しばらく経った頃、「兄」は、いつの間にか「姉」に変貌を遂げていた。
その変化は緩やかで、しばらくは、誰も気づかないくらいだった。なんとなく、最近髪が長いらしい。とか、なんとなく、可愛いものを身につけるようになった、とか。
でも考えたら、彼は昔から可愛らしいものを好んでいたし、家から離れることで、そういうものが自由になったんだろう、そう感じていた。別に化粧をする男の人もたくさんいるし、都会で「そういう感じ」の、「そういう方向」に行ってるのか、くらいの認識で。
それがいつの間にか、そうではない、領域に変貌していて、私はしばらくのあいだ、ただ、呆然としていた。
B
いち抜けた、という感覚。
家から遠く離れて、「お兄ちゃん」の役割を引き剥がして、名前すらも引き剥がして、私は、いままでとは違う、もうひとつの「現実」を手に入れていく。
そこでどうにか、足がかりを探す。
4【スライド+ノイズ音】
——
C
母からのしかかってくる「普通」が、取るに足らない幻想であることが解っていてもなお、それは振りほどきがたく、私を縛り付けている。
当たり前に学校に行って、当たり前に卒業して、就職をして、当たり前に結婚をして、当たり前に子どもを産む。
姉がそのレールから外れてしまったから、兄が家を離れてしまったから、それを担うのはあなたしかいない、という、彼女の中での「当たり前」の要請。
彼女の求める「そこそこ」の高校に行って「そこそこ」に卒業して、そうして、そのあたりで、私の「そこそこ」は力尽きてしまった。
その先にあるものは普通の結婚で、普通の家庭を築くことで。
そこまで来たときに、愕然としてしまった。
私の中には、かけらほども、その欲望がない。
A
結局、きっかけが一体なんだったのか、もうよく覚えてはいない、と思う。
何か、決定的な出来事が、あったような気もしていた。その時にさっと胸をよぎっていった、強烈な感情の手触りだけを、僅かに思い起こすことができる。
だけど、何もかも記憶が曖昧で、はっきりと思い出すことができない。
B
ーーお兄ちゃんは、自由でいいよね、とかつて妹に言われた言葉が蘇る。
自由だったんだろうか、と私はゆっくりと考える。
まあ、そうかもしれない。「普通の」人達に比べれば。
でもそれは、「自由に」生きていくしかなかったという不自由さの裏返しなんじゃないか、とも思う。
そんな不自由さの間をすり抜けるようにして、生きながらえるために、アイコンとしての「自由」を身体に貼り付けていく。
外側から貼り付けられる「分類」や「解釈」に抗うために、先んじて「名乗って」いく。
5【スライド+ノイズ音】
——–
A
病院に運ばれた彼女は、始終朦朧としていて、それでも、時々私を呼ぶ。
お姉ちゃん、と繰り返し私を呼んで、そうして、私の姿を認めると、安心したように、また、眠りに落ちてしまう。
遠い昔に父親が家に寄りつかなくなって、そうして弟が家を出て、それから妹が出て行って、あの家に2人きりになってから、いつのまにかそれなりの時間が経っている。
でも、彼女は彼女で、私は私で、別々に生活をして、だから、そう呼ばれたのなんて、いつ以来なのかもわからなかった。
B
毎日のようにかかってきていた母親からの電話が来ないことに、落ち着かない気持ちになる。
彼女が倒れた、という連絡を、姉からもらって、もう3日も経っていて、それなのに、夕方の時間になると、それをすっかり忘れている。
お兄ちゃん、と私を呼ぶ彼女の声が響いてくる。
いつまで経っても私はあの家のなかで「お兄ちゃん」で、今や彼女にとっておそらく、いちばんのよりどころで。
それを引き受けてやりたい、という気持ちと、煩わしいという気持ちと。
しばらくその役割を背負っていた妹は、いつの間にか、家を出てしまったらしい。
ーー電話にも出ない、と嘆く声。
うんうん、と私はただ頷いて、彼女の声を聞き流していく。
ーーお姉ちゃんは相変わらずあんなだし。昔はあんなにいい子だったのに。
繰り返し繰り返し訴えられた言葉が、頭を駆け巡る。
「あんな」だ、と彼女は言うけれど、ここのところ姉は別に、母に見えないところでそれなりに自分の生活を作っているようだった。
元来器用な人だから、そこまで、心配することでもなければ、そう困ったこともないのかも知れない、とそう思う。
彼女が欲しいものは、いったい、なんだったんだろう、と考える。
もしかしたら、彼女は、この家が「うまくいっている」というその形を、なかば意地のようなもので、証明したかったのかもしれない。
父親と出会って、そうして、まだ小さな子どもを連れた彼と、成り行きで見知らぬ土地で生活をはじめた彼女が、ここで、処世術として頼ったのが、そういうものだったのかも。
子どもたちが「ちゃんと」していること。
それを担保できている母親であること。
ーーそんなことを考える。
でもそれは、私が、母について、外から勝手に評していることで、そうして、彼女を分析して、私の中で、理解可能なものとして語り直しているだけのもので。
本当はぜんぜん違うのかもしれない、とも考える。
だから、これはあくまで、彼女の話ではなくーー勝手な私の物語で。
私はそうやって、彼女の声を思い起こしながら、そんなふうに何度もはなしを作り直して、私にとっての物語を組み立てて、そうして、私自身の「理解」を手繰り寄せていく。
C
もう長い間、その部屋に閉じこもっていたはずの姉が、当たり前のように倒れた母に付き添って、その手続から何からを、滞りなく果たしているらしいことに、戸惑ってしまう。
知らない間に、姉はあの狭い部屋の中で、大人になっていたらしい。
別に困ってはないから、来ないなら来ないでもいい、そう言われることに、更に戸惑ってしまう。
自分から距離を取ったはずなのに、蚊帳の外にいるような、不安が襲ってくる。
いつのまにか、飛地に私だけが取り残されているような。
6【スライド+ノイズ音’】
——
B
不意にいくつかの記憶が蘇ってくる。
断片のような記憶。
C
不安定な足元で、私は多分、誰かの手を握って、神社の敷石の上を歩いていた。
B
病院のそばには、大きな神社がある。
この辺りの総鎮守。
A
妹の手をぎゅっと握って、私は歩いている。
七五三のお祝い。
B
赤い縮緬のお着物。
C
たしか、親戚から譲り受けた。
いいものだから汚しちゃだめ。
B
赤い晴れ着…縮緬の。
C
朝からずっと、ずっと、
気をつけて、汚さないで、いいものだから、
そう繰り返された言葉が頭の中を回っている。
B
赤くて、可愛くて、少しいい匂いがする。
C
不意に脱ぎ捨ててしまいたい、と思った。
私にまとわりついている、嗅ぎ慣れない匂いのする晴れ着。
B
それを着ていたのは、自分ではない。
だけど記憶の中ですり替わっていく。
A
いい天気だね、と誰かが言って、空を見上げたら、本当に、雲ひとつない晴天で、
それを見て、なんだか、まるで、このまま空が落ちてきそうだ、と思った。
視界が一気に歪んで、急激に襲ってくる不安に、泣きそうになる。
近くで、ぐずっている同じくらいの子どもに、小さな苛立ちを覚えた。
私は唇を噛んで、全てに、気が付かなかったふりをする。
C
ーーいいものだから汚しちゃだめ。気をつけて。
それはしばらくたってから、すとんと…腑に落ちた。
いいものだから汚しちゃだめ。いいものじゃないなら、汚れてもいい。
それが延々と、居座っている。
いつからか、自分の身体が自分と乖離しているような感覚を抱えている。
ときどき、身体を切り離したいという切望に苛まれる。
だけど、私はどこまでも私でしかなくて、そこから、逃れることができない。
7【スライド+ノイズ音】
——
C
家出をするように都会に出てきてそして「いかがわしい」仕事ばかりを転々として、
ここのところしばらく働いている店の、薄暗い個室。
マンションの一室でひっそりと営業している「そういう」サービスのお店。
店の乾燥機で乾かされたばかりの、洗濯したてのタオルの匂い。
それを敷いた細いベッドの上に、私はゴロゴロと寝転がる。
多分法律には違反している。
だから、運が悪ければ一瞬で失ってしまう。どころか私も、罪に問われてしまうのかもしれない。
でも、この不安定な居場所は、私の中で、自分がコントロールできる唯一の場所、そんな気がする。
客が入ってきて、迎え入れて、シャワーに連れて行って、そうして、もう一度迎え入れて、ベッドに寝かせて、それからマッサージをする。
それから、いくばくかのローションを手にとって、ただの作業として、その身体の真ん中に手を伸ばしていく。
そうして、吐き出されていく、誰かの体液。
毎回、こういうことに、特になんの意味もないのだ、ということを確認する。
これは単にメカニズムでしかなくて、ほんとうに、そこには、大した意味も、価値もない。
そこに何かを見出すことは簡単で、世間はたくさんの意味付けをしようとするけれど、こうして、体の上にかけていた一枚のタオルを引き剥がしてみたら、そこには、別に、なにもない。
そんなものだったのか、という、仕組みをじっと「覗いて」いる。
ーー愛情と性欲と生殖は一致しない。
そんな当たり前のことに、深く安堵する。
A
ときおり、ひたすらに、消えてしまいたい、と思う発作がやってくる。
ベッドにうずくまって、そうしてその衝動をどうにかやり過ごしていく。
希死念慮、というやつなのかもしれないし、ちがうのかもしれない、と思う。
いつでも消えてしまいたい、と願っているのに、それでもそれを実行に移さないのは、何なんだろう、と自問する。
自分をつなぎとめているものが、いったいなんなのか、自分でもわからなくて、混乱していく。
B
おそらく姉や、妹が引き受けていた母の要請から、私はおそらく、何かを迂回するようにして、すり抜けてきてしまった。
彼女が私に求めていた「息子」の役割を、私は抜け道のようにくぐり抜けて、彼女の「普通」の範囲を侵さないままに、するり、とあの家を抜け出した。
彼女が満足の行く「大学」へ進学をする、という「合法的な」抜け道。
その分だけ、私は、姉と妹の二人に、重荷を背負わせてしまった、という引け目を感じてしまう。
だけど、と思う。
彼女はとうてい、息子が娘になってしまった、などという荒唐無稽な現実を、受け入れることはできないだろうし、
それを目の前に突きつけたら、それこそ余計に、二人に負担をかけることになるだろう、とも思った。
そうして、それ以上に、そんなふうに扱われるだろうことが解ってまで、彼女と面と向かって対峙するエネルギーは、とても私の中にはない、そう思った。
それでなくても、刷り込まれていく外界からの抑圧は積み重なっていく。
それにどうにか、抗いたいと思う。
強引に「私」を「理解」しようとする社会の欲望にあらがっていく。
あなたの、その、ちっぽけな不安を解消するために、私を、勝手に理解しないでほしい、と切望する。
8【スライド+ノイズ音】
——
C
「母が倒れたから」店の待機場所でそんなことをこぼした。
特に親しく話をするでもない、そのときに居合わせたら、他愛もない雑談をするだけの同僚と、スタッフ。
あんまりよくないみたいで、と続けたら、帰るの?とスタッフに訊ねられて、私はうーん、と歯切れの悪い返答をする。
帰ったほうが、いいんだろう、とは思う。思うけれど、上手く思い切りがつかない。
あんまり、帰りたくない感じ? と同僚が何でもなさそうに口を挟む。
そんな感じかな、と私は答えて、まあ、じゃあ、決まったら電話して、と言うスタッフに、小さくうなずいた。
わたしもさあ、帰んなかったよ、父親だけど。お葬式?もなんも、出てないし。
あっけらかん、とそう言われるのに、私はびっくりして、そっか、とうなずいた。
そう、会いたくなかったし。顔も、見たくなかったし。大っきらいだったから。
そう言われるのに、ぐらり、と感覚が揺らいでいく。
B
大嫌い、と言えるほどに明確に憎むべき何かが見いだせていれば、もうすこし簡単なことだったのかも、と思わなくもない。
それはそれで、多分、大変なんだろう、と思うけれど、それでも、輪郭を持たない何かと戦うことは、至難の業で、いつの間にか、たくさんのものが削り取られていく。
A
ぽつん、とひとりきりの家に帰って、私はその、玄関の真ん中に立ち尽くしてしまった。
大量の記憶が、蘇っては過ぎ去っていく。いいものも、わるいものも。
そのうちに、何が本当にあったことで、何が自分の想像の中の出来事だったのか、よくわからなくなってくる。
どれもこれも、大したことではない、とも思う。結局、取るに足らないことばかり。
数え上げてみれば、どれも、なんてことはないありふれた出来事ばかりで、なにか大げさな悲劇が、起きていたわけではない、と思う。
でも、それでも、と、はたとおもう。
どれも重大事だった。
私にとっても、そしておそらく、彼女にとっても。
B
結局、思っているよりもずっと、圧倒的に無力だったのだ、とおもう。
私も、姉も、妹も、そうして、母自身も。
もちろん、私たちよりももう少し、彼女には力があったのかもしれない、とは思う。
思うけれど、それは、彼女一人に支えきれるようなものでは到底なくて。
外の世界から、移譲されていく抑圧。
それは少しずつ 少しずつ堆積していく。
あちこちにできた歪みは、もしかすると、彼女なりの抵抗だったのかもしれない。
9【スライド+ノイズ音】
——
A
眠り続ける彼女の横顔を見ながら、もうこのまま、目覚めなければいいのに、と思う。
このままなら、平和でいられる。心穏やかなままに、きっと良好な親子、でいられる。
そう思う自分に、苦笑をする。
この期に及んで、良好な親子でいたい、というその刷り込みの強固さについて。
でも、やっぱり、目覚めてほしくはない、と思う。
目の前に横たわる彼女は、どこからどう見ても圧倒的に無力で、そうしてすごく安定していて、そんな彼女を見つめていることで、安心をする。
突然、理不尽な要求をすることもなければ、不機嫌を撒き散らして、周りを困らせることもない。
子どものころからずっと、穏やかであってほしい、とそう願っていた彼女の姿がそこにあった。
B
危ないかもしれない、という続報に、私はとりあえず、姉の様子を見に行こう、と思い立つ。
病院には、行かなくても、家に行けばいい。もはや、何を言う人間もいないわけで。
そうして、意識が、戻らないようならば、病室まで行ったところでかまわないだろう、とも思う。
言いたいことの、2つ3つは、やっぱりあるかもしれない。
それに、顔くらい、見ておいたほうが、あとから引きずらずに済むかもしれないし。
ーー結局、よくわからない。
彼女を、憎むべきなのか憐れむべきなのか、それとも、別になんともしなくていいものなのか。
あれもこれもわからない、掴みどころのないものばかりで、その間をただ、私は右往左往と彷徨い続けている。
C
嫌なら帰んなくていいんじゃない? と、同僚は私に笑って、別に、後悔とかしなかったよ、私は、と付け加えてくれる。
わかんないけど、と更に付け加えてくれる彼女の気遣いにはたと胸を打たれてしまう。
嫌なら帰らなくていい、その言葉を繰り返しているうちに、涙が込み上げてきてしまう。
ーー嫌なら、帰らなくていい。
A
ゆっくりと2階に上がって、やっぱり私は、自分の部屋の扉を閉める。
そうして、眠り続ける母親の横顔を、しずかに葬り去っていく。
このちいさな家の中にある、私たちの個人的な出来事は、だけど、外の世界の誰かの、身勝手な理屈からできている。
彼らにはきっと見えてもいない、あるものともしていない、「私」の世界に、それは否応なく踏み込んで、掻き乱していく。
すべてはありふれた、取るに足らない出来事。
扉の手前に線を引く。そうして、かりそめの砦を作っていく。
ささやかでつたない、頼りない、危なっかしい、ままごとの城塞
そして私は、そこに、小さな旗を立てる。