プロローグ
【スライド:MORE THAN NAMES 集団たま。】
S:
「女性になりたいが、どうすればよいかわからない」と、その人は私に訴えた。
そのとき私は、「女でありたい」私は率直に感じた。
「女性に“なりたい”ってなんだろう?」
A:
私は、その人の「女性になりたい」という訴えの意味を、懸命に探しましたが、力になることができませんでした。深まることのない面接は6回で中断。
「女性になりたい」とはどういうことなのかも、わからずじまいでした。
当時の記録を読み返すと、互いの対話がまるで噛み合っていないことがわかります。
「どうすれば女性になれるかわからないから教えてほしい」と期待してやってきたその人に、私は私と“同じ”「女でありたい」人であることを期待して会っていたのです。受容的にかかわろうとしていたのが、気づけば心のうちで「『女でありたい』ならこうするはずだ」「なぜ『女でありたい』なのにそんなことも調べないのだろう」などと、その人に対して「女でありたい」人としてのあるべき姿を要求していたんです。
その人の抱える「わからなさ」が、私にはわからなかった。
「学生相談員」の私が、同時に「女でありたい」者として相談者と向き合うことの困難と未熟さ、無力感を覚えた、はじめての出来事でした。
このときの体験は、私に、「他者の性は、本来“わからない”ものであり、自分の性のことは、“わかったつもり”になるものである」という知を与えました。
「自分と“同じ”トランスジェンダー」とはわかり合えて、「自分と“違う”シスジェンダー」とはわかり合えない、「自分と“同じ”女性」ならわかって「自分と“違う”男性」のことはわからない、というものではなく、そもそも他者の性は他者の性であり、“わからない”のである。そして、自分の性は、“わかったつもり”になっている。
当時の私には、“わからない”ことも、“わかったつもり”になっていることもわかりませんでした。だから、私と相談者との境界が曖昧になってしまっていたのです。
他者に他者独自の性があるのと同じように、私にも私にしかない性があり、他の誰でもない私の、性に対する認識や見方がある。自他の違いに気づくためには、まず自分の性と向き合わなければならないということを、このときの経験は教えてくれたのでした。
それから私は、他者にとっての当たり前を知るために、自分にとって当たり前であり続けてきた自分の性の問題に取り組むことにしました。
M:
ここで前提とするのは、「本来的に人間の性が多様である」という事実である。
第一章
【スライド:あなたの名前は?】
A:
私には、名前が二つあります。
出生名が「あきら」で、日常的には「あき」という名前を使っています。
「あき」という名前を自分につけたのは、「ら抜き言葉」の洒落です。
そもそも、「れる」「られる」は、文脈に応じて受身・可能・尊敬・自発のいずれかの意味を接続する動詞にもたせる助動詞で、「ら抜き言葉」が「日本語の乱れ」との批判を受けるのは、その活用が文法の法則から外れているからです。
しかし、「ら抜き言葉」には、それが生まれる合理的な理由がありました。「感じられる」の意味に「受身」「可能」「尊敬」「自発」のどれをとるかは、文脈を参照しなければ判断できないけれど、「感じれる」は「感じることができる」、つまり「可能」の意味しかもちえません。
これは、「来れる」であっても「食べれる」であっても同様で、「可能」の意味を瞬時に把握することができます。「ら抜き言葉」は、話者が相手に対して正確に意図を伝えるために有用な、極めて合理的に生まれた用法であるという見方もできるのです。
かつて私が、大学の日本語学の講義でこの話を聞いたとき、目から鱗が落ちる思いでした。
言語は、それが「他者へ物事を伝えるための道具」であるがゆえに、行為の積み重ねを通じてより便利な形に変容していくものであると気づかされたのです。
私が自分に与えた「あき」という名前には、自身の抱え持つジェンダーを合理的に、かつ正確に表現したいという意味がこめられています。
戸籍の名前や私のジェンダーを知る人には、「ら抜き言葉だよ」という話をすれば酒の肴になるし、知らない人には「女性によくある名前」として疑問を持たれることがありません。
「あき」という名乗りが、日常のコミュニケーションを楽なものにしています。
—
M:
私の名前はエリコといいます。
漢字は江戸の江に里に子供の子。
割と普通です。
父方の祖父がつけました。
長江の江のように広く穏やかで、里のように優しい人になって欲しいという思いがあるそうです。
自分の趣味思考が固まってきた大学生くらいから、名前を呼ばれると頭の中ではカタカナで変換されるようになりました。
カタカナにした時のフォルム、バランスがしっくりきたんだと思います。
私にはエリコという響はカタカナに聞こえるのです。
—
【スライド】:「日本国語大辞典」(2001)<なのる>
S:
私たちが「名乗る」のはなぜだろうか。
あるいは、新たに生まれる事象に私たちが「名乗らせる/名付ける」のはなぜだろうか。
「日本国語大辞典」で<なのる>を引くと、以下のように記されている。
な-のる【名乗・名告】
① 自分の姓名・素姓・身分などを相手に告げ知らせる。そういう名であることをみずからいう。自分から名などを明らかにする。
② 自分がその当人であることを申し出る。自分にかかわっている事や物であることを告げる。告白する。白状する。名のりでる。
これによれば、<名乗る(名告る)>は、その字の通り、相手に対して自らの存在を「告げる」ことであると捉えることができる。
たとえば、赤ちゃんの出生と命名について考えてみたい。
産まれたばかりの赤ちゃんが自分で名前を考え、名乗ることはできないから、周りの大人が考え、名乗らせることになる。これが、「命名/名付け」という作業である。「命名」は、母体と同じ個体であったものが切り離され、「他者」となった瞬間に行われるものである。
命名された名前は、他の誰とも異なるその人固有の存在の証明として、人生を通じて機能する。
したがって、異質な二者の間に境界線を引くことが、<なのり>の機能のひとつであると考えることができる。
その一方で、<なのり>は、国籍や性別、身分など、なんらかの属性の集合を示すものとしても用いられる。
先に示した出生の例を再度挙げたい。母体から産まれた赤ちゃんは、多くの場合、その外性器の特徴から、医師や助産師によって、二者択一の「性別」が与えられる。
それを元に出生届が提出され、赤ちゃんは社会的に「男」もしくは「女」いずれかの「性別」を付与される。「性別」は、属性の集合体にかかわる<なのり>のひとつである。
「性別」に代表されるような、異質な二者の間に境界線が引かれるということは、裏を返せば、「同じ属性どうし“だから”解り合える」、「同じ属性どうし“なのに”解り合えない」といったように、同じ属性をもつ者どうしで同質性が期待されることでもある。これが、<なのり>のもうひとつの機能である。
【スライド】同質性と異質性の図解
M:
「日本国語大辞典」によれば、「名」には、「個、または集合としての事柄や物を、他から区別するために、対応する言語でいい表わしたもの」、あるいは、「その属性を象徴するものとしての名称」という意味がある。これに照らし合わせれば、私たちは、「男」あるいは「女」という「性別」を、「女」あるいは「男」から区別するために用い、それと同時に、「男」あるいは「女」という「性別」を、それ自体を象徴するなんらかのイメージとして用いている、ということになるかもしれない。
これは、人物を特定する姓名であっても同じことである。
たとえば、「島袋」という姓の人物に自己紹介されたとき、「本土」にいる私たちはまず「沖縄の人かな?」と想像する。これは、「島袋」という姓が沖縄出身者に多いという、私たち自身の「沖縄らしさ」のイメージによるものであり、「島袋」という姓に沖縄という「本土」からみた「異質性」を読み取っているのである。
逆に、姓名の「同質性」を考えるにあたり、「田中家」の親戚が一堂に会した例を挙げる。この場では、それぞれが「田中です」と<なのる>必要がない。場に集まった者はすべて「田中」の家にかかわる人物であるという「同質性」がすでに担保されているからだ。個を見分け、認識するために必要な<なのり>の多くは下の名前であり、家系のどこに位置付けられるかである。仮にここに別の姓の人物がいた場合、「他の家の嫁になったのだろうか」という形で「異質性」の想像が働くかもしれない。
S:
<なのり>には他者との「異質性」を示す機能と、他者との「同質性」を示す機能の、二つの機能があるものと考えられる。異質性と同質性は、常に二者以上の事物や集合の間での関連を前提とする問題であることから、<なのり>は、他者との関係性なしに成立するものではないということがわかる。
—-
【スライド:あなたの名前は?】
M:
なまえ、複雑ですね。
苗字が変わったり、変わらなかったり。
自分が、どの名前で生きていきたいのか分からなくなってきてます。
下の名前にちゃんをつけてもらうのが一番ほっとするんだけど、なかなか呼んでもらえないな。
S:
私には「名前」と自称できるものがだいたい4つくらいあって、コミュニティによって使い分けています。いわゆる戸籍に載っている名前は名乗らないままのことも多いし、そのままでとても親しい間柄になることもあったり。
いわゆる「本名」は、一般的に言うと女性的な名前で、でも、そこまで女っぽい、と言うほどでもありません。
小学校くらいの頃に、その事実についてとても安心した記憶があります。
もしも自分に「名付けられていた」名前が、象徴的な”女性”の名前だったら、乗り切れなかった「何か」があるかもしれない、と思うことが時々あります。
M:
私に対する名付けの由来や逸話についてはわりと気に入っていて、
特に、最初は違う名前をつけようと思っていたんだ、という別候補の名前と、男の子だったらこういう名前をつけようと思っていた、というその名前のことも、私はとても気に入ってます。
何かに行き詰まったときにも、名付けられなかったその2つの名前を生きる、別の人生の可能性が、私の中には眠っている、とおもうと、少し楽になれる気がするんです。
S:わたしの名前は、祖父の名前と母の名前に重ねた一字に、「子」の字がついている。
由来に気づいたのは物心ついてからで、何かのついでに漢和辞典をめくったときだった。
その一字は、血縁ならではの愛情の証のように感じられた。嬉しさと重さが等量、「子」の字にのしかかっている。
一方、私にとって「子」という字は、「日本の女性の名前」というニュアンスと、「日本の古風な名前」というニュアンスをまとう。
名前を意識をするとき、自分がなにか巨大な歴史に参加していることを知らされて、生きることの寂しさが少し減る。
ただ、わたしがそこに参加したかったかどうかは別の話だ。
わたしが誰かに名前をつけるときには、「子」の字は使わないとだけ決めている。
M:
私の名前は、わりと一般的で、よく物語に出てくることがある。
そしてその名前の人間が物語に登場するときはたいてい、少し悪どく色っぽい、一癖ある人である場合が多い。
自分とはかけ離れた人物像だけど、古今の物語に登場する人物たちの名前が連鎖しあって、音の響きが人物を引っ張ることもあるのだろうと思う。
イメージが、音にもぺったりとくっついていると思う。
S:
私の名前は、生まれる性別が男女どちらであっても使えるようにと思って、親がつけたそうです。
男なら漢字で、女なら平仮名にしようと思っていたそうです。
男らしくもなく、女らしくもなくな名前の響きは自分でも好きです。
第二章
【スライド:あなたのセクシャリティはなんですか?そしてそれを「なのる」ことはありますか?】
M:
私たちは、<なのり>の付箋を身体に貼りつけることなしに、自他の異同を認識することができない。
あるジェンダー/セクシュアリティの<なのり>について、他者との共通項を見出して安心することもあれば、他者と異なる<なのり>を有するがゆえに自分はおかしな人間なのではないかと悩むこともある。
<なのり>を引き受けることもあれば拒もうとすることもある。内面に<なのり>を抱えることもあれば、外へ向かって表明することもある。そうした、ジェンダー/セクシュアリティの<なのり>にまつわる人それぞれの主観的な<いきる>体験を、丸ごと抱え、どう変容していくかを考察することが、私達には不可欠なのではないだろうか。
—
S:
いま、私は結婚していて、子どもを持っていて、だから、世間的に見ると、とても一般的な「マジョリティ」の人生を歩んでいる。
だから、私は、シスジェンダーで、ヘテロセクシャルだ、ときっと多くの人に無意識のうちに定義されているのだろう、と思う。
さらに言えば、結婚制度というモノガミー的な価値観にも、抵抗がないのだろうとさえ思われているのかもしれない。
そして、そういうものに抗うとき、私は、Xジェンダーで、バイセクシャルで、ポリアモリーだ、と名乗ることにしている。
名乗るけれど、これはたぶん、「事実そのもの」とは、少し違う。
男にも女にも振れたくない、ととても思うから、その意味では、Xという表現も間違ってはいないとおもうけれど、より厳密に言うなら、私は「”女性器のある身体を許容している”男」、という自認がいちばん安心できる気がする。
バイセクシャル、というのも本当は嘘だ。
確かに、性的対象が男性/女性どちらもにわたるという意味では、バイセクシャルといえなくもないんだろうけれど、そもそも私の性的対象は”相手の性別”を問題としていない。それより優先される要因がさまざまにあって、そしてその対象はものすごく、狭い。それをうまく説明したり定義する言葉はよくわからないし、自分でも、正直、これがどういうことなのかわからないところもある。
そして、社会の現状、婚姻という制度を利用したほうがいろいろ便利だ、と思ったから、いま、結婚をしているけれど、
その制度そのものを肯定しているわけではけしてない。
ただ、この便利さ、を享受できるかどうかがとても狭い条件付きだということに、強い怒りも覚える。
もちろん、自分は享受している側なわけだけど。
M:
いまのところ、気持ちはモノガミー。
体はノンモノガミー?
ヘテロかバイかビアンかと言われれば
ヘテロよりのバイ?
大学生の頃はトランスジェンダーの子とばかり付き合っていました。
なので本当はバイではなくヘテロなのかも知れないです。
ただ、女の子と男の子の両方を持ち合わせた
彼らは大変魅力的でそれはアイドルとかに対する気持ちと近いものがあったと思います。
S:
生まれの性と、性的自認は一致。恋愛対象は異性。他人に名乗る機会は特にありません。
M:
私はパンセクシュアルを自認していますが、そうじゃなくてもよいと思っています。
好きになった人が好きなだけなので。昔は異性が好きだと認識していましたが、身体的に同性の方とお付き合いをして、私はその人がその人だから好きになったのだと気がつきました。
パンセクシュアルはどこでも属せるようで、どこにも属せない感覚があります。でも、特に属したいという気持ちもあまりありません。それくらい自由なセクシュアリティだと感じます。
懸念があるとすれば、「誰でもいい」と思われることです。そのため、セクマイの知識がない人には迂闊には言えません。誰でもよいのではなく、性別というものにとらわれずにただその人を愛するだけなのです。
—
S:
<なのる>ところには必ず「名前」がある。
それは一見明確であり、端的であり、わかりやすい。
「同性愛者」を<なのる>ことで得られる恩恵、「性同一性障害者」を<なのる>ことで得られる恩恵も、少しずつ増えてきたように思われる。しかし、<いきる>こと全般に立ち入ったとき、ジェンダー/セクシュアリティを<なのる>ことは決してそう単純ではないことがわかる。
「異性愛者」を<なのり>ながらも同性とのセックスを行う者もいれば、「同性愛者」でありながらもそれを<なのら>ずに<いきる>者、「同性愛者」を<なのり>ながらも異性婚という選択をとる者もいる。生まれもっての性別役割を<なのり>ながら「トランスジェンダー」を<いきる>者もいれば、「シスジェンダー」を<いき>ていた者があるとき「トランスジェンダー」の自分に気づくこともある。
こうした例を想像すれば、<なのる>ことと<いきる>こととは、必ずしも整合がとれておらず、両者の境界が曖昧で、はっきりしないこともある、ということが理解できる。
—
M:
いま、自分はだいたい女性だと思って生活しています。
幼少期には、大人になるとペニスが生えてくるという根拠のない予感がありました。
でも、生えなかったので少しガッカリしました。
時折、男として振る舞いたい欲求が、間歇泉のように湧くことがあって、何がきっかけになるかは自分でもよくわからない。
性的指向はだいたい男性だけど、男性に限定はされません。
ちなみに、関心を寄せる相手が女性だった際に男性として振る舞いたい欲求が湧くわけではなくて、
男性と過ごしているときに湧くこともあります。
S:
ポコポコ生えてきた胞子の1つみたいで、生殖機能もパラっと振り分けられたパーツの1つという感じで、いまだに物珍しいし他のパーツも面白そうね、と思うけどそこまで興味がない。
恋愛対象性も外的な影響がなければ特に決めてなかったかも。異性からのアプローチが多いからその中でパートナーを選んだ。
M:
うーん、異性愛って思ってたけど、すっごく魅力的な同性にあってないだけなのかも。最近は、もしかしたら同性も好きになれるかもなぁと思い始めました。
第三章
【スライド】あなたの「セクシャリティ」にまつわる思いやエピソードは?
S:
人間の性の多様であることは,出会う体験を重ねることで経験的に理解されるものであって,逆にいえば,出会えない(カミングアウトしづらい)環境に理解を生むことは難しい。
それは本質的に「未知」で「わからない」事実であり,出会った数に応じて経験的にしか理解しえない。他者の性を「理解できない」という人があったとき,多くの場合は,そもそも他者の性の問題に無関心で「理解しよう」と心掛けていないか,性の問題に向き合ったことがないため「未だ知らない」かのいずれかである。
目指すべきはまず,他者を理解せんと心掛けることである。「わからない」ものが「わかった」ときに,「未知」は「既知」となる。人と人との相互理解は,この絶え間ない繰り返しによって,円環的に成立するものである。
—
M:
幼い頃から「性的なもの=いけないもの」と教え込まれたので、物心つくまでは性的なものに関心を持つことに罪悪感がありました。
「上記のような考え方が世間一般の常識というわけではなく、もっといえば自然の摂理というわけでもない
」と知って以降は、「性とは千差万別だしなんでもあり」と考えるようになって。
しかし、それこそ人によって性の捉え方は千差万別であり、社会には暗黙のローカルルールというのも存在している。
そのことに気づくまでかなり時間を要しました。
S:
母がフェミニストで、「男らしく、女らしくなどとは言ってはいけない。男だから泣いちゃだめだ、とかもおかしいんだよ。」などと小さな頃から教えられていたので、自分は逆にそういうことを考えるのが面倒になってしまった。
M:
性愛に関しては、例えば女性らしく、とか、男性らしくとか、その他の要素についても、相手からの「このように振る舞ってほしい」という欲求に応えて、そのように振る舞おうとすることが多いです。
自分自身の「このように振る舞いたい」という欲求を押し通すことはほぼありません。
それはやばすぎる、と、いつもビクビクと制御している感じです。
S:
普段は職場に異性が多いものの、特に意識はしていないが、折に触れて性別での役割が〜といった古風な区分けが見受けられ、はっとすることがある。違和感。
M:
個人的には、私は、モノガミー的な価値観には共感できなくて、それってすごく不自然だな、と感じます。
でも、ポリアモリーやモノガミーの問題を考えていくと、どこまでがセクシャリティにまつわる問題で、どこからが単なる「他者との関係性」の問題なのかというのは、よくわからないな、と思ったりもします。
私にとって、”恋人であること”と”セックスをする”ことは別のところにある感じだから、特にそう思うのかもしれません。
私は、友人関係であろうと、愛情関係であろうと、その他の形であろうと、常に相手とは「一対一」の密な関係を築きたいと思っているし、できればそれが「例外的に稀有」なところまで発展して行くことを願っているし、もちろんそれは同時並行していくし…。
関係性全般においてポリアモリー的、というか。逆に?友人関係についてもモノガミー的な考え方をすることもありますよね。
そう思うと、結局よくわからないというか。やっぱりすごく難しいな、と思います。
S:パートナーが望むので、ほかのパートナーを持たない生き方を選んだ。
まったく違う考え方の人がパートナーであれば、恋愛のスタイルも変わるだろうと思う。
とはいえ、自分自身の中にも単婚主義的なものがあるかもしれない。
年々、恋愛のあり方についての自分の考えは、パートナーとの考えと絡み合っていて、不可分になってきている。
A:
「泣くな!男だろ!」
これは、大学受験がうまくいかなかったことの悔しさで大泣きする私に向かって、父が放った一言。
その瞬間、泣いていた私の傍に、ふと冷静な私が立ち現れました。
「男は泣かないものなのかな?」
「そうか、私は男なんだ」
「泣いている私は、男として不適格なのかな?」
小さい頃から泣き虫だった私は、この日を境に、涙を流すことができなくなりました。
15年前の出来事です。
そもそも、私は果たして、幼少期から「男」だったのか。
実は、父に「男だろ」と言われるまで、深く考えたことがありませんでした。
戸籍や保険証を見れば、確かに「男」と書かれているし、中学、高校と男子校でした。言うまでもなく、「男子」しか通うことの許されない学校です。
野球観戦や鉄道旅行といった趣味は、いかにも「男子」の好むものでした。その一方で、かわいいキャラクターのグッズを集める、いかにも「女子」の趣味ももっていました。
いずれも私にとってはごく当たり前のことで、ひとつひとつ「男らしい趣味」「女らしい趣味」というように感じることはありませんでした。
私はあのとき、自分が「男である」という確かな感覚も、「女でありたい」という願望ももっていなかったのです。
むしろ、歳を重ねるにつれ、私は「男」にならざるを得なかったのかもしれません。
「男である」という確かな感覚をもっていなかった私が、はっきりと自分を「男」になりたくないと理解したのは、成人式の日です。私は、メンズスーツを着て式に臨むことに拒絶感を覚えました。むしろ、晴れ着を着たいと。
晴れ着を着ることが「男」でなく「女」なのかどうかはわからなかったけれど、いずれにせよ「男である自分」を突きつけられた私は、「男でいること」を拒むようになりました。
髪をのばしたり、マニキュアを塗ったり、携帯電話にかわいいストラップをじゃら付けしたりと、自由な大学生活のうちに、ありたい自分の姿を模索しました。
そんな私を見て、否定的なことを言う周りの友人がほとんどいなかったのは、幸いなことです。
しかし、大学も3年になれば、就職活動という壁にぶつかります。
小さい頃からどうしてもやりたい仕事があったので、「男になること」を我慢して就活を始めました。そのうち、着るたびに嫌な思いをしていたメンズスーツにも慣れてきて、「なんとか頑張れそうだな」「男でいるのが嫌なのも気のせいかもしれない」と感じ始めたある日、突然過呼吸に襲われました。急なことに頭が混乱し、トイレへ駆け込んで嘔吐しました。
つけられた診断名は、「パニック障害」でした。
やはり、私にとって、「男になること」には、無理があったのかもしれません。
それならば「女でありたい」。しかし、「女であること」が、私にとっての幸せなのだろうか。「女でありたい」という望みが容易くかなえばいいけれど、果たしてそんなことができるのか。私はそのようなことばかり考え、葛藤しました。ただひたすら孤独でした。
そこで出会ったのが、心理臨床学という学びの分野であり、心理臨床家という職種でした。
他人の葛藤に接し、支えるという営みにシンパシーを覚え、これなら「男になりたくない私」にも、“同じように”悩む人を助けることができるかもしれないし、「女でありたい私」としても一歩を踏み出せるかもしれない」と感じました。
私は、「女でありたい」と望む人間です。
第4章
【スライド:私は「OOでありたい」者である”ともしも定義するなら?】
M:
私は「女でありたい」とは不思議と思わない。
かといって、「男でありたい」とも思わない。
セクシュアリティとは離れるけれど「生み出すものでありたい」と思います。
S:
私は、常に「クィア」でありたい。とおもう。
外部から定義されるなにかを、拒むものでありたい。
そして、常に、自分自身と、それから目の前にいるだれかの、最大限の理解者でありたい、と願っている。
そうして、更に、それが本当にはかなわない、ということを常に知るものでありたい、とも思う。
M:
わたしはだいたい女性であるが、時々男性として振る舞いたいと思い、どちらでもない生き物でありたくなる。
わたしが何者でありたいかは、誰と過ごしているかによっても変わる。
「これこれこのような認識が社会の常識であり当たり前である」と考える人たちから、時には自分自身から、
「こうあるべき」と貼り付けられる、社会における性的な役割やイメージについては、一切合切、剥ぎ取りたい。
エピローグ
【スライド:白紙】
S:
近年、新聞やテレビ、インターネット上で、肯定的な文脈にせよ否定的な文脈にせよ、「LGBT」「性同一性障害」などの言葉を目にする機会が増えている。
先進国のなかでもセクシュアル・マイノリティの人権に関する議論、あるいは具体的な支援策に関する議論が遅々として進まなかった保守大国・日本にあって、一歩一歩であっても改善が図られようとしていること自体は、歓迎すべきことである。
マイノリティの人権は、マジョリティのそれと同等に守られるべきであり、そうした議論は国家ないし地方自治体レベルで進められるべきである。
しかし、果たして「セクシュアル・マジョリティ」が「セクシュアル・マイノリティ」を「理解」し、「支援」すれば、「多様な性」が理解されたことになるのだろうか。あえて主観的な表現を用いれば、私はそこに、マイノリティに対するマジョリティの「違う生き物」を見るような視線を感じずにはいられない。言い換えれば、従来の「セクシュアル・マイノリティ」をめぐる議論の多くには、「マジョリティ=強者」と「マイノリティ=弱者」という力関係があり、支援する者、人権を保障する者は「セクシュアル・マイノリティ」でない、自己の性について向き合う必要のない存在であるという暗黙の了解があるように感じられる。
A:
ーーー私は、支援者、あるいは研究者という立場で「セクシュアル・マイノリティ」当事者と会ったとしても、彼ら/彼女らを完全なる他者、違う世界の人間として「客観的」に捉えることが困難です。
たとえば、「セクシュアル・マイノリティ」ならではの困難や葛藤の語りに対し、「主観的」に共感したり、また「主観的」に反感をもつことも少なくありません。会うたびに、私自身の様々な感情の揺れ動きを自覚し、自覚するたびに、新たな発見をもって当事者と向き合うことになります。「セクシュアル・マイノリティ」支援を志して心理臨床学なる学問の戸を叩いたばかりの頃は、こういった自分自身の感情、「性(せい、さが)」とでもいうべきものに対して無自覚に蓋をし、「客観的」に対象を捉え、マニュアルに沿った支援をしようと試みていました。
しかし、それは振り返れば徒労であり、かつ気疲れするばかりの手段でした。
当事者を理解できないときに生じる無力感が、自己の性の問題に由来することであったとしても、そう認識することができませんでした。
あるいはそうして、私は当事者に対して「強者」になろうとしていたのかもしれません。
—
S:
私は私として見られたい。
私自身もそうですが、どうしても身体的な性別として見られ、扱われます。
仕方がないことだと思いつつも、私は接する相手が異性か同性かなどは重要ではないのです。性別のフィルターを通さない1人の人間として見てもらえたら、と、考えることがあります。
M:
私は、穏やかな気持ちで人生を終えたい。
人生の最後はストレスのない気持ちで終えたいです。
その為にはセクシャリティはなんだって良いと思っています。
S:
私は、「有り体」でいたい。
M:
いろんなジェンダーステレオタイプから自由でいたい。
自分で自分を縛る男らしさとか女らしさから自由になりたいなあと。
—
A:
マイノリティであろうとなかろうと,人間は一人一人に別々のセクシュアリティをもつ。
自らのセクシュアリティに悩んだり,「男らしさ」や「女らしさ」といったジェンダーにまつわる個別性の高い価値観を心にもつのは,なにもセクシュアルマイノリティに限ったことではない。人間の性は,マジョリティ/マイノリティを問わず多様であり,誰もが「当事者」なのである。
自らの価値観に自覚的でないと,それを知らず知らずのうちに他者へ押し付けることで,他者を傷つけてしまうこともありうる。これは,教師/生徒,援助者/被援助者,援助を必要とする者/必要としない者といった文脈,あるいは学校に限らず,心理臨床の現場や病院,企業や官公庁などの組織マネジメントの文脈にあっても同様である。人間一人一人の抱える性を,その隣にいる他者とも等しく共有できるとは,必ずしも限らないのである。
M:
したがって,人間の性を理解するためには,理解されんとする「他者」に対するまなざしと同時に,理解せんとする「自己」へのまなざしをも持ち併せる必要がある。
S:
ここで前提とされるのは、「本来的に人間の性が多様である」という事実である。
【終】